文治5年(1189・鎌倉)、伊達氏の祖・伊達朝宗が鎌倉の鶴岡八幡宮を居城となる高子岡城(伊達郡高子村)の城下町に勧請しました。その時に霊亀が現れたとこから、亀岡八幡宮と称したと伝えられています。応永33年、伊達家が本城を移したため岡部梁川に遷座。天文元年、伊達稙宗が西山城に遷し、元亀2年、梁川に移しました。更に、天正の頃、伊達政宗は岩手山に移ります。その後、その場所は上杉景勝の領地となりました。
歳月は流れ江戸時代となり、神主として神社を守っていた山田宮太夫清重は伊達家とその領土を創建より鎮護していたことからこの事を嘆き、弟の重之と慶長6年密かに神体を護持して伊具郡丸森に向かい、伊達政宗にこの事を伝えました。同7年、伊達政宗は仙台同心町(瀧沢神社)に仮宮を造るよう命じて安鎮し、宮太夫に米三口を与え讃えました。
寛永17年、義山公(忠宗)は社殿を経営し同年7月に遷宮を執り行い、梁川今八幡と称しました。同20年4月、遷座を執り行って始めての神事を行い、祭奠(お供えもの)に稟米を五石を寄進します。
天和元年7月、仙台藩四代藩主 伊達肯山(綱村)は神社を城坤河内の地(現在の青葉区川内亀岡)に移し、立派な社殿を作るため大規模な工事をし宮社を造営、素木造(しらきづくり)、入母屋の屋根を有する拝殿と総朱漆塗流造(そうしゅうるしぬりながれづくり)の本殿でした。同3年8月15日に落成し、遷宮して亀岡八幡宮と称しました。更に祭祀料を八石、百石の地を敬進し宮太夫を山田土佐守の名前に改め、神職に定め三十石の地を給与しました。神職10人、巫女2人、女中2人、酌婦1人、人夫2人をつけました。別当寺を亀岡山積宝寺千手院と定めました。
歴代藩主の奉納品の多くには、刀剣・銘備前長船義光の一振が重要文化財に指定されています。(観蹟聞老志、名蹟志、封内風土記、社蔵記録)
明治4年7月、村社に列しました。昭和20年7月、戦災で旧社殿がことごとく焼失してしまいました。そこで一本杉の伊達家の氏神の社殿を移して本殿とし、新たに幣殿、拝殿その他の建物を造営して昭和40年10月竣工しました。
約300年前、松尾芭蕉が訪れたと言われる往時の名残りは、鳥居と苔むした石段のみ。社殿からは芭蕉が見たと思われる仙台市街もかすかにしか見えないほどに周りの木々は生長しました。
太鼓橋は春には枝垂桜のトンネルができる、大変有名な桜の名所です。こちらの枝垂桜は樹齢350年を超えています。